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「ザ・ロード」撮影日記(1)

Javier_aguirresarobeスペイン版 Esquire の1月号に、「ザ・ロード」の撮影監督のハビエル・アギーレサロベの撮影日記という形の記事が掲載されています。

viggo-worksのこちらにはこの記事のスキャン画像が、またこちらには Ollieさん、Remolinaさん、Rioさん、Sageさん、Zooeyさんが英訳してくださった記事があります。

ヴィゴの視点、ヒルコート監督の視点とはまた少し違った内容がなかなか興味深いので、とても長いのですが、何回かに分けて、こつこつご紹介していきたいと思います。

ハビエル・アギーレサロベ氏が撮影監督を務めた映画で、日本でも知られているものは、「それでも恋するバルセロナ」、「宮廷画家ゴヤは見た」、「海を飛ぶ夢」、「トーク・トゥ・ハー」、「アザーズ」などがありますが、一番最近では「ニュームーン/トワイライト・サーガ」なんていうのも手掛けています。

この肖像写真を見ると、このまま映画に出演しても良いぐらい、とても味わい深い顔をされてますよね。

それでは、まず導入部分から...

「ザ・ロード」撮影日記

彼は6つのゴヤ賞を彼の自宅の棚の上に持ち、ウディ・アレン、ミロス・フォアマン、(アレハンドロ・)アメナバールと仕事をし、スペイン映画界で最も偉大な撮影の名人とみなされている。光の熟練工、質感の名人である彼は、最近、彼の印章を大ヒットサーガ、トワイライトに残した。Esquire は彼に、「ザ・ロード」撮影中のヴィゴ・モーテンセン、シャーリーズ・セロンやコーマック・マッカーシーとの彼の経験を共有させてもらえないかとお願いした。気前よくまた丁寧に、アギーレサロベは私たちのために独占的にこの日記を書くことを申し出てくれた。どうもありがとう。

 

ヒルコートとの会話

ある日、 2007年11月の初め、私がメキシコで撮影をしているときに、「ザ・ロード」の脚本が手元に届いた。その表紙にはコーマック・マッカーシーの本に基づく、とあった。この重要な事実と、最初のパラグラフを読むと、ただ良い物語というだけでなく、大きな撮影上の挑戦でもあるということに目を見開かせられた。その上、このプロジェクトの監督であるジョン・ヒルコートは、特に私に向けてメモを書いていた。その中で、彼はどのようにこれを映画にしたいか説明していた。それはとても緻密な文章だった。彼は彼の構想を開示し、それと同時に大きな懸案事項を私に分かち合っていた。「誰もがこの小説は映画にすることはできないと言います。」

数日後、彼に会ったとき、彼は私に、この特別な文学的なテキストを映像に変換するための、あらゆる種類の技術的な解決法についてたずねた。私の答えは曖昧だった。私は何もできるだろうと確かなことはなかった。コーマック・マッカーシーが提示した世界の終末については、非現実的なものは何もなかった。それ故に私にとって、これは非常に困難だった。フィクションの中の真実性を創造するのはとても面倒なのだ。私がやったことは、その問題に対する私のアイディアを希望と熱意を持って彼に紹介したことだった。私は彼と4時間を過ごし、私にとって契約をすることは重大なことだった。それに私はとても説得力があるとは思えなかった。とはいえ、それにもかかわらず、ジョン・ヒルコートはとても私に寛大だった。彼は私に無数のイメージ、何百もの参照資料を見せ、私に次から次へと質問した。それらはすべてこの1つにまとめられるだろう:「私たちはこれをできると思いますか?」 私はいつも、もちろんできると答えた。ジョン・ヒルコートがこの映画を私とともに制作すると決心するまでに4週間が過ぎた。これは私にとって大ニュースだった。私が重要な機会を提示されていたのは間違いなかった。大きなチャンスだ。「ザ・ロード」は私がこれまでやってきたどれとも違う映画だった。そしてこれはアメリカの国土における私の最初の映画だった。まったくの夢だった。

 

ピッツバーグ、オペレーション・センター

2008 年1月の最初の日、私はロサンゼルスに旅した。この年の狂乱状態の始まりだった。そこで私は再びジョン・ヒルコートと、彼の友人でやはりオーストラリア人のクリス・ケネディに会った。彼はプロダクション・マネージャー(ヨーロッパ映画における美術監督)だった。この芸術家はすでに「プロポジション - 血の誓約」をヒルコートと制作していた。私たちは最初の打合せをおこなった。そこで最初のアイディアの中で使われたフレーズはこんな風だった:「緑は存在するはずがない。」、「太陽も存在するはずがない。」、「この映画はコーマックが書いたように表現することだけが可能だ。」私たちはロケの候補地の写真を見た。終末的な場所、汚染された川、損傷した森。カトリーナが通り過ぎた跡。写真はアリゾナ州、オレゴン州、インディアナ州、ワシントン州で撮られていた...私たちはこのプロジェクトで何マイルもカバーするよう運命付けられているようだ、だが、分別が勝った。最終的には、そこがロケの大部分にふさわしいと思われるので、私たちはほとんど全部の撮影をピッツバーグに集中させた。これがどうしてピッツバーグがオペレーション・センターになったかということだ。それでも、ニューオリンズとオレゴンが後で私たちを待っていた。

ピッツバーグは、近年衰えてきた都市である。その中心街は非常に陰鬱だ。そして街の郊外には半分見捨てられた住宅地と何も活動していない製鋼所がある。そこにいた時、私はチミノの「ディア・ハンター」を思い出した。あの映画の中ではここは最高の状態だった。今や、これらの通りは打ちのめされてその家々は半分壊れていたので「ザ・ロード」が必要とするものだ...街の中心部からの離れた場所で私たちは別の興味深い状況を発見した:車がいないハイウェイ、滝、最初のシーケンスのための洞窟、エリー湖の湖畔...このような街に住むのはさぞかし大変だろうとはいえ、ここに来たのは賢明な処置だった。これが毎朝仕事に行くとき、私の顔に叩きつける氷の北極のように冷たい突風から自分の顔を守ろうとしながら考えたことだ。

と、まずは撮影開始直前までです。
次はいよいよヴィゴも登場します。

⇒ (2)

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